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いま・・・

 皆様はご自身の信仰(心のよりどころ)とよべるものをしっかりとお持ちでありましょうか?
お持ちであるなら、その信仰の教えをもとにした生活を送り、信仰に生ききっておられると感じて
日々生活しておられるお方はどれだけおられる事でありましょう・・・
佛教の開祖である、お釈迦さまの説かれた『佛説(ぶっせつ)無量(むりょう)寿経(じゅきょう)』と呼ばれるお経の中に

(ひと)世間愛欲(せけんあいよく)の中にありて、(ひと)(うま)れ独り()し、独り()り独り(きた)る。(ぎょう)(あた)りて()(らく)()(いた)(おもむ)く。
(しん)みづからこれを()くるに、()わるものあることなし。
    
【意訳】
 人は愛欲の広海にさ迷いながら生活をつづけているが、つまりは一人生れて独り死に、独り来て一人
 去ってゆくのである。
 したがってその責任は自分自身が負わなければならず、だれもこれにかわってくれるものはない。

と、説かれてあります。
 孤独のなかで、いくら辛く苦しい出来事にであっても、誰にも代わってもらうことのできない。また、代わってあげる事の出来ない一度きりの、限りのあるいのちを生きているのが人間の厳粛な事実であります。このような現実のなかにあって「世間愛欲の中」に埋没する限り、自分の外に苦の原因を探り、受ける苦を自分の外にだすことにしか心が及ばない。
いつの時代であっても、これから何百年何千年と経とうとも、人が、人のこころを持ち生きていく限り
皆、
なぜこんな目にあわなければならないのか?
なぜ、自分だけ・・・
      なぜ  なぜ・・・・
と言い様の無い、どこにももっていきようのない苦しみにあわなければならない事実からは免れることは出来ません。

お釈迦さまは続けて説かれます。
 なんぞ(しゅ)()()てざらん。おのおの強健(ごうごん)のときに(およ)びて、つとめて善を勤修(ごんしゅ)し、精進(しょうじん)して()()(ねが)ひ、
 極長(ごくじょう)(しょう)()べし。
 いかんぞ(どう)(もと)めざらん。いづくんぞすべからく、()つべきところある。なにの(らく)をか(ほっ)するや。

【意訳】
  それなのに、どうして人々は、世間の雑事をふりすて、身も心も丈夫なとき、力をつくして
  善行をはげみ、浄土往生の行を願わないのであろうか。
  もしそうすれば、永遠の生命が得られるであろうのに、一体、人々はなぜ道を求めないのだろうか。
  人は一体何をこの世に期待しているのだろうか。
  そしてどういう楽しみを求めているのだろうか。まことに悲しいことである。


 佛教は、佛が衆生にかけられた願いを聴き、佛の示された佛道を修していく中で己の存在を超えて自身が佛に成る教えが説かれてあります。
佛さまが説かれたみ教えは、決して世渡りの指南書ではありません。
大病を患い、不安定な生活基盤を嘆き、良からぬ事が続くと、人は何かにすがりつきたくなります。そこで、手っ取り早い解決策として、宗教への救いを求める方は多いのではないでしょうか?

困った時の神頼みという言葉がありますが、これは都合のいい時だけ神さまを持ち出し、神さまを使おうとしている。自分勝手の最たるものです。
・・・・と書きつつも、私のこころはさいさい困った時のなんとやら〜に陥ってしまってます。
    まさに、お敬いの心はどこへやら・・・

 佛さまはわたし達の、勝手気ままな、願望や欲望を叶えて下さる事はありません。
佛さまが救いたいと願われるその救いの中身とは、わたし達の心から湧き上がる欲望の解決=救いではありません。
HOMEの文章に書いていますが、“己をはっきりとしらせていただき〜”とは、佛心に遇う事で気付かされるわたしの姿であります。

たまに、自分の事は自分が一番知っておると言われるお方をお見かけいたしますが、ここに迷いの存在である人間をまざまざと見せていただく思いが致します。“今”に至るまで、他でもない一番長く付き合ってきた自分自身にあっていないからこそ出る言葉であります。

また佛道を歩んで居られる方の中に、まだ自分自身がよく分からんのんです。と言われる方がおられます。
道を求める道中のお方をくさす気持ちは毛頭ございませんが、
自分自身を知った解ったところでどうにかなるんでしょうか?

自己を知るのは、佛道を歩む上では出発点であると教えていただきます。
自己を知るのは目的でも、救いの手段でも、救われる条件でもないのです。

佛さまのお救いの働きに、わたし達がいくら自分とはなんぞや、と自身でみつめしろうとする己の姿には、佛さまには用事はありません。
佛心に遇うということが肝心なのでであります。
なぜならば、目で己の姿を見る事が出来るでしょうか?鏡を使えば別ですが、見る事はできません。
そこで、己が己の心の有り様を持ちうる限りの、知識、経験、外聞、で自己を知ろうとしても気が付かない、気付けない事があまりにも多いのです。
だからこそ、佛さまに己の姿心の有り様をおしえていただくのであります。
自己に捉われ、自己から離れる事が出来ない迷いの存在である人間を阿弥陀佛は、煩悩具足の凡夫と見定められたのです。
わたし達が見れない自己を、阿弥陀佛は隅々まで知り抜いておってくださいます。助けずにはおれんのんじゃと
立ち上がられたのが阿弥陀佛と呼ばれる佛さまなのであります。


おしながき

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